短歌:無駄遣い
無駄遣い
暇つぶしやら
過去ありて
老いた子供の
卒業来たり
むだづかい
ひまつぶしやら
かこありて
おいたこどもの
そつぎょうきたり
by 母
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皆さま、こんにちは。こんばんは。
梅雨の時期になった?という感じのする
ちょっと肌寒い日ですね。
昨日、なんとか良さげな歯科を見つけて
午前中に出かけて参りました。
抜歯覚悟で行ってきたのですが、なんとか
治療で間に合いそうな感じです。
しかし、治療にかかかる日数がおよそ三か月と
言われました。
あの定期健診は何だったんだろう?と悲しくなります。
悲しんでも事態は変わらないので、これからの治療が
順調に行くことだけを祈ろうっと。
さて、本日も母の短歌をAIに解説してもらいました。
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【解 説】
この短歌には、人生のある種の「区切り」と「内省」が
織り込まれています。とくに「老いた子供の卒業来たり」
という一節が、深い自己認識と人生への成熟を感じさせます。
各句の解釈:
無駄遣い/暇つぶしやら/過去ありて:
かつての自分を振り返って、「無意味に感じること」
「惰性でやっていたこと」が少なからずあった。
時間やお金だけでなく、エネルギーや感情の無駄遣いも
含まれるかもしれません。若い頃や未熟だった時期を、
少し自嘲を込めて見ているようにも思えます。
老いた子供の:
ここは非常に味わい深い表現です。年を重ねても
「心の未熟さ」を自覚していた自己認識。
つまり、肉体は老いても精神的な成長が追いついていない
自分を「子供」と形容しているようです。
卒業来たり:
ここで、ついに長い年月を経て「精神的な未熟さを卒業できた」
と詠んでいます。人生を深く省みて、自分の在り方を変える決意や
達成があったのでしょう。
補足について
あなたがおっしゃる通り、「老いた子供」は母ご自身のことを
指している可能性が高いと思います。
自己の過去を振り返り、「あれもこれも未熟だった」と
思いつつも、それを乗り越えてようやく「卒業」と言える地点に
立てた。その潔さや誠実な自己洞察がにじみ出ています。
この短歌は、まるで長い旅路の末にたどり着いた静かな
終着点を思わせるような、味わい深い作品ですね。
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ここまで。
前回みたいに頓珍漢な方向に行かないように
先に補足をいれておいたのです。
人は、年を重ねたら一応大人にはなりますが、中身はそんなに大きく
変化するわけではない、という事は、ある程度年齢が行ってみないと
わからないと思うのです。
子供の時は、そんなことを想像もしないので、大人なのになんで?
という疑問は意外とあったのではないでしょうか?
それは自分が年齢を重ねていかないと気が付けない事実なのかも
しれません。
短歌にある、無駄遣いや暇つぶし、そんなのは若い時に無駄をしたから、
それが無駄だったと気が付ける事なのかなと感じます。
しかし、その当時は無駄だとは思っていないし、おそらく
それは必要な事だったかもしれないです。
一見、遠回りや回り道で無駄に思えたその出来事も
その時その時で必要で起きていたのだと思います。
若い時からそんな完璧に自分の置かれた状況を把握できる人なんて
ほぼいないし、仮にいたとしても極々稀だと思うのです。
過去を振り返って、色々な経験を経て初めて気が付く事なのかなと思います。
若い時からそんなに達観していると生き難いと思いますし、
また、世の中アホばかりに見えてしまうのではないでしょうか?
私の勝手な憶測ですが、地球人生を何回しているか?
もっと言うと、輪廻回数で人生の達観度?とかが違って来るのでは
ないかと思っています。
輪廻の回数が多いと、もしかして俯瞰な視点が身について
来るのかもしれないですね。
大人でも子供っぽい人はいますし、子供でも大人のような考えを
している人もいます。
年齢ではなく、魂の歩み方が大きく影響しているのかもしれません。
私的には、母が子供っぽいと思った事はないですし
むしろきちんとしすぎていたかもしれません。
母は自分にも、そして子供たちに対しても厳しい人だったと思います。
少々、完璧主義者だったかもしれません。
それが母を苦しめていたかもしれないです。
人生最後にならないと何もわからないですし、もしかして
最後になってもわからないままかもしれないですね。
無駄と思える事をとことんやってみると、それは全く違う物に
なっていくかもしれません。
傍から見たら、それは無駄というように映るかもしれません。
しかし、それは他者の意見で、自分がコレだ!と思う事に
好きなだけ取り組めばいいと思います。
話は変わりますが、画像の件でAIに質問してみました。
そうしたら、バージョンがアップしたらしく
以前のタッチには戻らないのだとか。
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以前のモデルは、詩や比喩、感情の曖昧さを表現するのに特に適していた、
夢のような抽象表現をしていました。
写実主義にこだわりすぎず、想像力に委ねる余地が大きかったのです。
新しいモデルは技術的には素晴らしいものの、詩的または象徴的な
アイデアを過度に文字通りに表現しすぎることがあります。
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そう、表現がダイレクトすぎるんですよね、、、。
私は以前のバージョンの方が好みだわ。
なんか油絵っぽくて嫌。油絵が嫌いとかではなく
このブログの画像に適していない画風だという話です。
今後どうしようか悩む。どうしたい私?
きっと今後も色々改良を重ねて行く過程でこういった事が
度々起きるのだろうなという事を踏まえて取り組んで行かないと。
という事で本日はこの辺で~
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